一線を越える超えないについて
最近また不倫スクープ祭りだな。
「ゲス不倫」
の次は、
「一線は超えてません。」
世間のみーんなが思うよ、一線てどこだよ。と
ミヤネ屋でもやってたけれど、
手を繋ぐのが一線の人もいれば
映画を観るのが一線になる人もいて
昼間にランチをするのも一線を超えているという人もいる
キスだったりセックスだったりを世間の認識的には一線というのだろうけれど、そんな曖昧な線引きをあえて何度も何度も使って、
大衆の、
”ん?そもそも一線ってどこだ?この芸能人達はいったいどこまでの事をしたんだろう?私にとっての一線は…?”
っていう、興味&自問自答にすり替えて、また不倫が注目を浴びているように思う。
メディアってあの手この手で大衆の興味のコントロールをするね。すごいー。
って、まぁそれはいいんですけど。
私がパートナーに越えて欲しくない線は、
行動ではなくて気持ち。
さすがに、手繋ぎ、キス、セックスなんて気持ちがなかったとしてもムカツク。
案外、その中でも手繋ぎが1番嫌かもしれない。
それは、気持ちがないとしない気がするから。
セックスは正直、気持ちがなくてもやれちゃうものだし、実はもっと単純なことのほうが気持ちがないとしない事が多い。
相手を知ろうとする事や、相手の幸せを考える事、ふとした時に脳裏によぎったり、同じように自分の事を考えて欲しいって思ったり。
セックスもそういうお互いの気持ちの確認行動になるけれど、反面、気持ちいいし性欲処理っていう明確な目的もある。
それは気持ちがなくたって目的があっての行動だから、風俗っていう立派な商売にもなっているわけで、その自己本位の気持ちよさを得る為の行為だ。
三大欲求とも言うぐらいなんだから、食べる寝るって事と同じように人はセックスするんだと思う。
理性で抑えているだけ。
ってことは、手をつなぎたいとか、キスしたいとかは、その先にセックスを求めているのならそれもまたセックスのための'手段'であって、何の気持ちすらないただの行動になるけれど、
そうじゃなくて、ただ、この人と手をつなぎたい。この人とキスがしたい。ってそこを目的として行動した時、それは気持ちが突き動かすもので、恋とか愛とかのジャンルになるんだと思う。
そうなったら、私はその行動が、ランチでも電話でもラインでも、「一線を越えている。」と判断する。
でも、それは、本人しかわからない話。
周りから見れば、ただランチしただけ。電話してただけ。ラインしただけ。
それで怒り出す奴なんて、ただ面倒臭い奴だと思われるだろう。
一線を、目に見えるところに引くことは簡単。
本当の一線を越えたか越えてないかは、当の本人の淡い気持ちを知ることでしかわからない。
もし私の彼が、他の女と会ったり連絡を取ったりしていなかったとしても、心の中で常に誰か想っているヒトがいたとしたら、、、
って、私なんて一線どころの騒ぎじゃない。
何線も越えてます。すみません。笑
心がどうとかのレベルじゃない
オフホワイト?いえ、真っ黒です。
自分のことは棚に上げておくのが1番です。